知性主義は引き継がれなくなった。

私は学生時代、いわゆる音楽ヲタだった。ロッキンオンとかスヌーザーみたいな雑誌を読み、カラオケじゃ歌わないヒットチャートには上らないような音楽ばかり聴いていた。

当時好きだったatari teenage riotというアーティストがこんな発言をしていた。
「俺の好きだったアーティストには必ず主張があった。でも企業の音楽は絶対そういう主張をしない。聴いてる人が「なぜ俺はこれに惹かれたんだ。なぜ俺はこれをクールだと感じたんだ。政治のせいか?国のせいか?親のせいか?教育のせいか?性別のせいか?俺は何をしてるんだ?」って考え始めたら企業にとって悪夢だからな」

当時としてはこれが知性主義/反知性主義との分かれ目だったのだと思う。1番有名な例を引き合いに出せば、レディオヘッド浜崎あゆみみたいなのが、1番わかりやすい知性と反知性だった。そしてロック雑誌を読むと過去の偉大なバンドとして自分が生まれた1981年前後だと、クラッシュ、トーキングヘッズさらに10年前だとデビッドボウイなんかが当時として知性主義的な音楽であり、当時のヒット曲としてピンクレディ−とか松田聖子とかが反知性主義だったのかもしれない。生まれた前後なのでよく分からないが・・

そこで思うのだけど、レディオヘッド以降、知性主義を代表するような音楽は現れてない。スヌーザーは廃刊したしロッキンオンの表紙は過去の偉大なロックバンドばかり・・でもAKB48とかエグザイルみたいな反知性主義はしっかり受け継がれてる。先日20代前半のマイルドヤンキーっぽい女の子とカラオケする機会があったのだが、浜崎あゆみとかモーニング娘とかの曲も知ってて、何故かというと小さい頃から親とカラオケ行ってるから・・だからマイルドヤンキーの子は上の世代と似た感じのAKB48とかエグザイルなんかが人気が出るのだろう。

でもこうも思う。ポップミュージックは元々反知性主義だったのだ。ジャズだったり現代音楽だったり、芸術として優れた音楽は沢山あるなかで、誰にでも聞きやすくしたポップミュージック、それは反知性主義であり、それに芸術的要素を加えてちょっと聞きづらくしたのが、レディオヘッドのような知性的音楽だったのだ。だから知性的であろうとする人々は最終的にポップミュージックを聴かなくなったのだ・・と。

最近の音楽チャートがひどすぎると話題だが、これはポップミュージックがたどり着く必然なのだ。
小説にも同じようなことが言える。昔は村上春樹を読む人は知性的な人だった。でも今は・・もし何かを主張したいなら訴えたいならそれを直に新書にして出せば良い。わざわざ小説にする意味があるだろうか?村上龍が「この小説で何を訴えたいのですか?と聞く人がいるがそれが言えれば小説なんて書いてません」でも今の大衆は知性的であるならそれにしか興味ない。

そう言いつつも私の学生時代の楽しみは音楽を聴き、小説を読むことだった。学校を卒業するくらいから音楽も小説もあまり楽しくなくなり、私の知性主義はアドラー心理学により人間の行動欲求の根源は「承認欲求」というところに達した。もし私が今の大学生だったら退屈すぎて生きていけない。

知性主義の人達はもうあまり言いたいこともないし、することもないけど。反知性主義は前世代からしっかり文化を引き継いでいる。それが今の日本の現状なのかと思う。