反自由民主主義

ツイッターを見てると、反安倍政権、とかフェミニストの反男はいったいいつまで続くのかとうんざりする。

確かに、何かが改善される時、例えば酷い家庭で育った人が、自分の子供のを同じ目に合わせないよう一生懸命、子育てしようとする時、今まで当たり前とされてきた通例を改善しようとする時、ポジティブなエネルギーが拡散される。江戸時代初期や二次世界大戦後もこれから戦争のない平和な社会というポジティブエネルギーに溢れていたらしい。もちろんそれは良いけど、そういったものが長続きしないことは、今までの経験上、明らかな事であり、そこに何か欠陥があるのではなく、世の中そういう風に出来ているものだと学ぶべきだ。

資本主義は人を進化もさせたかもしれないが、退化もさせた。まさにスクラップアンドビルドである。一般大衆に物欲やら出世欲やらを植え付けた。だから、子供を愛することこそ一番大事というとなんだかいい事言ってるようだけど、物欲やら出世欲に囚われてなかった昔の人には極々当たりまえのことだったのかもしれない。

ここ100年で人が一番退化した部分は、ユートピアらしきものを民主主義により現世で実現可能と思ってしまってる事で、デモやらボランティア活動やら得た1時的なポジティブエネルギーを継続させていつかユートピアに辿り着けるのではないかと考える人もいるが、それは勘違いだと思う。昔の人は世の中所業無情である事を悟っていた。が現代人は忘れてる。

自由は人を不自由にする。なんだか矛盾してるみたいだけど、人は自由にされるほど、他人との比較に囚われる。規則で縛られるほど、他者との比較から解放され、マイペースで生きられる。ということを最近茶道から学んだ。

西洋人は芸術でも何でも、新しいもの革新的なものを好む。でもそれはただ同じ粘土をひたすらこねくり回しいるだけ気がする。西洋には文明の最先端でなくてはならないという意識なのか、ピカソみたいに奇抜な方向に進むが、東洋では昔に偉大な芸術家の境地に自分もたどり着きたいというのがモチベーションになっている。これは夏目漱石草枕参照。

人がもっと規則で縛られたコミュニティの中で暮らせれば、無駄なツイートなんかせず、もっと幸せに暮らせるのではと思った新年。