現実には自由などない現場から・・・

仕事が自宅待機状態なので、このところずっと暇だ。色々講演会に行ったり好きなだけ本を読んだり、時間はたっぷりあるのだが、時間があればあるほど、自分が不自由だと感じる。以前は仕事がなくなれば自由になれると思ってたがそれは勘違いだった。色々例を挙げて考えてみたい。

まず私は自分の意志で自分の体を動かせるわけではないと気付かされる。仕事がないと朝が起きれない。仕事のあるときは毎朝6時前に起きてたのに・・毎日昼前に起きて寝るのは夜の2時から4時、本当は朝早起きしたほうが気持ちいい、せめて朝10時前には起きたいとか思うのだけど、これが本当にどうにもならない。小学生の頃、夏休みの宿題を夏休みの前半で全て終わらせて後半おもいっきり遊びたいと思ってたけど、その通りいったためしがないのも同じ。

つづいて小・中学生の頃、学校でうんこが出来なかった。このルールは今でも謎だ。他にも学校に適応しようとすればするほど不自由になっていく例は色々ある。例えば見るテレビ聴く音楽等が流行のものになっていく、世界には色んな音楽や芸術があるのに・・。服装も中学では私服だったのだが、そうするとオシャレしないと付き合いができないとか色々不自由がでてくる。中にいるとあまり不自由だと感じないのだが、後になって振り返ってみたり外部から見ると不自由極まりない。くすぶれ!モテない系 (単行本) 能町 みね子この本を読むと良く分かる。

大学になって感じるのだが言論・話題の不自由。政治・哲学・心理・経済等の話は盛り上がらない。暗くて深刻な話もだめ。大概話題になるのは流行や仲間内の話題。持論ではその行為そのものの構造に触れる話はタブーなのだ。(構造主義)例えば何故人は流行物にひかれるのかという心理的な話とか流行のテレビや音楽を成り立たせてる経済構造だとか・・何故人は群れる必要があるのかという哲学的な話だとか・・

社会人になり働いてみて分かるのが、ライフスタイルの選択の不自由さ。仕事を辞める、選択することの不自由さ、と消費を選択することの不自由さである。まずは仕事はきつくてやりがいがない。でも辞めるのは容易ではない。家族・親戚・学生時代の友人・それなりにお世話になった会社の人からどう思われるのか?辞めていい仕事が見つかるのか?将来は?それと消費の不自由さ。もらった給料を何に使おうと本来自由のはずだが、ある程度金が貯まるとどうしても働くのがバカらしくなる。でも辞めるのは容易ではない。結果、ギャンブルや風俗などで無理してでも金を使おうとする。

敗残兵からの一言

さて上記の人はどうして他の選択肢を取れなかったのか・・休みの間その回答みたいな本を読んだので紹介したい。

心はなぜ<不自由>なのか(仮) (PHP新書) (新書) 浜田 寿美男 (著)

著者は一九七四年の「甲山事件」という冤罪事件の弁護団との出会いをきっかけに、「なぜ無罪の人が自白をするのか」という問題を三十年にわたって追及してきた。取調室という空間では、たとえ拷問がなくとも、人間の心理は思いもしない方向に引き込まれてしまう、という。

「虚偽自白(無実の人が自分を犯人と認めること)は一般には外からのの圧倒的な圧力により「自由」を圧殺された結果と考えられているが、実際の事例を見ると、追い詰められたところで最後には自分から虚偽の自白を選んでるという側面がある。(中略)実際、選べる余地があるのだったら何故「私はやっていない」という真実を守れなかったのかという反論がすぐに立ち上がってきます。しかしこのような反論が出てくるのは、人が当事者の「生身の視点」につききれず、安易に「神の視点」に立つからにほかなりません。「神の視点」からは、無実の主張を選び続けることが可能に見えて、そのじつ「生身の視点」からは、それがあまりに苦しくて耐えられない。そのために、あえて「犯人になる」ことを主体的に選ぶ。いや「生身の視点」に忠実に言えば、そうすることを「主体的に選ばされる」この逆説こそ、不自由の具体的なかたちがあると言っていいように思うのです。」

BI(ベーシックインカム)や労働の話をするとき、私たちはどうしても収入や労働時間のみから議論しがちであるが、それは机上の理論=神の視点であり、現場の現実=生身の視点ではない。先日湯浅誠氏がしていた話でこんなものがあった、以前ホームレスの男性をアパートに住まわせ生活保護を受けさせることに成功した。しかし男性はしばらくするとホームレスに戻ってしまった。理由はアパート暮らしは孤独であるから、ホームレスの時は家がなくとも仲間がいた。ホームレス暮らしのほうが良い・・と。マズローの欲求段階説というのがあるが、人は衣食住だけでは生きていけない。衣食住以上に大切なものがある。経済的に独りで生きていけても精神的には独りでは生きていけない動物である。だから労働も賃金だけの問題でなく、社会参加の一貫であり、そこに自分自身の価値を見出したり、人との交流のためであったりする。

さて最初の話に戻ると

私の中学では服装も髪型も「自由」だったのだが、実際には女の子に笑われないだろうか?クラスメイトに仲間はずれにされないだろうか?と様々な羞恥心と圧力により服装を選ぶ。制服ありで茶髪・ロン毛禁止の高校時代の方が私は自由に感じた。私は言論の弾圧を受けてるわけではない、でも巷で話題に出来ることは限られている。銃で脅されて働いたり物を買わされてるわけではない。私は元々社会に適応する気がないような人間だから、ある程度自由かもしれないが社会に適応しようとしてる人は・・・いずれにせよ適応を強いられてるのだ。

「自由は目の前に広がる選択肢の数の関数だとしたら、不自由はその選択肢を与えられながら、それを封じられた数の関数です。端的に言えば自由の数だけ不自由がある」


最後に付け足し

奴隷制が廃止された理由です。奴隷制は奴隷の面倒を見なければならない。強制的に働かすには暴力で脅す必要があるので、軍隊のコストがバカにならない。それに無理やり働かせてるのではモチベーションがあがらないから生産性が悪い。それより解放して、一生懸命働けば豊かになれると思わせた方が、進んで働くから生産性が高いわけです。でも、実際は賃金を管理されているから、いくら一生懸命働いても豊かになれないのですが・・(植民地が独立できたのも同じ理由による)」金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った (5次元文庫) (文庫) 安部 芳裕 (著)

「自由でないのに自由であると考えている人間ほど、奴隷になっている。」 ゲーテ