民主主義の嘘と現実

「民主主義は最悪の政治形態だ。これまでの全ての政治形態をのぞいては」ウィストン・チャーチル

「近代になって、西洋では市民革命が起こり、民主主義が定着したとされる。しかし市民革命といっても、王侯貴族や教会勢力を駆逐することで、もっとも得したのは、当時、勢力を伸ばしてきたブルジョワジーであった。言い換えるならば、ブルジョワジー階層が王侯貴族の権限を奪うために起こしたのがヨーロッパの市民革命であった。」

「実際のところ、アメリカの大統領選などを見ても分かるように、政治家たちを動かしてるのは巨額の資金を使ってロビイストをワシントンに送り込んでいる大企業であったり、多額の献金をしてくれる一部のエスタブリッシュメント階級なのである。」
資本主義はなぜ自壊したのか〜「日本」再生への提言

民主主義でみんなが納得できるような政治が行われない理由について考えてみた。

主な理由のは上記にあるように、政治家がどこかの利権団体の後押しがなくては出馬できなくて投票もそのなかから選んでるにすぎないこと、そして多数決なので少数派の意見は反映されない。

そう考えると民主主義という建前は国民を納得させるための手段だと考えられる。民主主義社会ですから、戦争にいってください、厳しい労働条件でも我慢してください。これはあなたが選び決定した社会ですから・・と、昔は戦争で兵隊を集めるのに銃で脅したり、高額の給料を提示したりする必要があったが建前上民主主義にすれば兵隊は集め易いらしい。それに民主主義=民度の高さを計る尺度とすればナショナリズムを煽る手段にもなる。

そしてそもそも政治外交というのは国民が参加したいようなものなのか。N・チョムスキー氏や田中宇氏広瀬隆氏などの本を読むと結局政治外交とはパワーゲームであり、生き残るためには強者に従い、弱者を叩かねばいけない。情を捨てて冷徹に判断を下さなければいけない。普通の暮らしを望む一般市民が参加を望むものなのか?

そして政治家を選んだとしてもその政治家に選択肢はあるのか?例えば太平洋戦争を振り返り、なぜ日本は勝てるはずのない戦争に突入してしまったのか?という議論があるが、当時の状況で違う選択肢を選びえたのか・・今でも日本の政治は対米従属だと批判されるけど、違う選択肢を取れるのか?

ただ見方を変えれば民主主義は既に昔から達成できてるとも言える。決定するのが政治家であれ官僚であれ投資家であれ、結局彼らは国民の圧力をコントロールしながら物事を決定しなくてはいけない。江戸時代の士農工商が無理やり強制したような印象があるが、それなりに農も商もそれを受け入れてたという事実があるように北朝鮮のような独裁国家であれ政府に従う兵隊や警察、市民がいるから成り立つわけで、基本的に国民の協力なしの体制などありえない。だからアメリカや中国の貧富の差もそうだし、日本で言えば、異常な労働時間もエネルギーや食料の自給率も満員電車なんかに至るまでなんだかんだと受け入れてしまったもの。逆に受け入れを拒否したのが世界的には少しはましな貧富の差とか戦争を拒否した9条だと思うのだ。

そこから日本の政治体制と資本主義を考えていくと・・まず資本主義を成り立たせるのに国民がしなければいけないのは労働、消費、戦争だと思う。で日本人の気質的に労働と消費はがんばってやるけど、戦争には向かないと判断されたから、今の9条と対米従属の資本主義体制が形成されたのだと推測する。

それと選挙が有効でないとしたら体制を変える方法は・・?デモというのがあるし、それはそれで有効だと思うのだが、人間の生活や考え方の決まり方自体が選挙的であると思うのだ。人々は絶対にお互いに影響を及ぼしあうことを避けられない。例えば、消費、人々がなぜ流行りを追いかけるのか、それはみんなが買うから買うのである。例えば月曜9時のドラマとかチャート1位の音楽とかテレビニュースとか。それとなぜ高級品を買うのか、それには絶対それを認める他者の目が必要となる。ベンツでもロレックスでもプラダでも・・だから私が流行も気にしない、高級品にも価値を置かないことは他者の消費、消費全体に影響を及ぼしてると考えられる。消費が減れば、労働も減る。それに働くとわかるのだが日本の労働意欲は賃金よりも社員間の仲間意識で支えられている。なので私のような自分から正社員の話を断るような異端者が入ると周囲の労働意欲が減退することが分かる。(私自身仕事はサボらずやっている)

「『何をすべきか』という問いに対して私は『分かりません』としか答えてきませんでした。私にできる唯一のことは、そこにある対象を厳密に分析することです。そんな私を人々は次のように非難したのです。批判の実践とは、状況をよりよくするためにいかにせねばならないかについて語る義務ではないのか、と。私にとっては、こうした論難は議論の余地なく、ブルジョワ的な偏見です。そうしたことが歴史において幾度となく起こりました。その結果まさに純粋に理論的な目的を追求した仕事が意識を変化させ、またそれによって社会的現実をも変化させてしまったのです。−アドルノ

「ある種の限界に達しない限りメディアによって支持されることになってる運動、国境なき医師団グリーンピースフェミニスト、反人種差別こうした類の行動は相互受動性について完全なる事例を与えてくれる。それは、何かを達成するためではなく、何かが本当に起きてしまうこと本当の変化を阻止するために行為することを意味しているのだ。こうした熱狂的なまでにヒューマニスト的なpolitically correctといった行動はすべて『始終何かを変化させ続けよう!そうすれば、全体からすれば事態に変化が起きない』といった定式にぴったり填っている。」


迫り来る革命 レーニンを繰り返す (単行本) スラヴォイ・ジジェク (著),

なので、なにか行動を起こさなくちゃ何も変わらないよ。という声に対して意外とできる事だけ、やればいいと思う。非暴力的だったインドの独立とかキング牧師の黒人解放運動と建前の民主主義との違いは?・・なにか特別な行動よりも分析のほうが大事かも・・とも思った。ジジェクは読んでも2割くらいしか理解できてない。しかし5割くらい理解できるようにはなりたいな・・。