地震で気付く自分の小ささと愚かしさと・・

今回の地震に関して、色々思うことがあり、現場ではまだ救助を待つ人、食べ物に困る人がいて、福島の原発も予断を許さない状況だからもっと落ち着いてから書こうかと思ったが、今思ったことは今書くべきかとも思いアップしてみた。

自然災害に見舞われてみて色んなことに気付く。はっきり言ってこういう状況になってみてから色んなことに気付く自分が情けない。

今回の地震で死者は万人単位になる見込みだそうだ。阪神淡路で6千人、スマトラ沖大地震では22万人、四川大地震では8万人。9・11同時多発テロでは2700人が死んだ。イラク戦争じゃ66万人近く死んだ。誰かが亡くなれば誰かが悲しい。数の問題じゃない。でも自分が今まで生きててニュースで知ってる中でもこれだけ亡くなってるのになんで今回に限って・・今回になって初めてこんなに心が痛むんだろう。今回の地震で自分のいる東京、多摩地域は大した被害に遭ってない。自分の知り合いで亡くなった人も直に被災した人もいない。でもその可能性はあったのだ。

阪神淡路のときは中学生でそういうことがあった程度にしか覚えてない。9・11の時、USAコールをするアメリカ市民を冷ややかに見ていた。もちろん天災とテロや戦争じゃ違う。USAコールが正しいとも思ってない。あの時は感情的になってもしょうがないじゃないかと思ってたけど・・身近な人や同じ文化圏の人が死んだら、どういう風にどういう風に心の整理をしたらいいのだろう?イラク戦争のとき義務感を感じてデモには参加したけど、殺される人の心の痛みなど自分には分かってなかったのだ。海岸に千人の遺体が打ち上げられたと聞いて事実を直視できない自分がいる。今まで世界にはそういう光景があると知っていたはずなのに・・

今までこのブログで色々考えてきたことも、間違ってたわけじゃないけど、なんだが小さく思える。普段は添加物だらけのカップめんやコンビニ弁当を避けなるべく手作りのものを食べようとしていたけど家を失って、ガスも電気も水道も使えなきゃそんなことも言ってられない。今日も電車が止まれば、実家にも会社にも行けない。なんと無力な事か・・

原発についてけっして無関心だったわけではないけど、自分も一大事が起きてから危険性を実感してる1人に過ぎない。

地震直後の日本一般市民の対応について海外からの評価が高いらしい。評価はどうでもいいけど、相互扶助っていうことらしい。地震直後、信号の消えた交差点で車同士道を譲りあってた。日曜日、普段話さない蕎麦屋のおばちゃんと地震直後の事について話した。今日は電車が止まっててタクシー乗り場でお兄さんが「横浜行く方いましたら一緒にどうですか?!!」って周りに声かけてた。コンビニでは店員とおじさんで「この辺の計画停電はいつになるんですか?」と話し合ってた。困ったときは協力して助け合う。それって素晴らしい、微笑ましい光景なのは間違いない・・けどじゃあ普段の私たちって何のために働いてるの?

復興は簡単に言っちゃいけないけど多分できると思う。東京の電気や電車はいずれ復旧すると思う。東北も大変だけど、何年かすれば少しずつ回復していくんだと思う。

復興は有意義な仕事だ。困ってる人を助ける大事な仕事だ。でも復興が進めばいずれそういう仕事も減ってきて、またいらないもの作っていらないもの売るような仕事をため息つきながらやるようになるんだろうか?電車は1分の遅れもなく動いて、コンビニには何でもそろってる。そうすれば誰とも会話する必要もない、誰とも助け合う必要もなくなってしまう。それって幸せなのか?今回の地震で相互扶助に幸せを感じたら、普段その相互扶助を殺してるものってなんだろう?って考えるべきだと思う。

この地震で学ばなきゃいけないこと、原発の危険性だけではない。もっと他にも沢山あると思うのだ。