虐待を受けたものから見たマジョリティの世界

匿名ダイアリーに書こうと思った事だけど、ブログに書いてみる。前からちょくちょく書いてはいたけど、私は子供の頃から共依存の母親から虐待を受けていたので、暗くて無表情、コミュニケーションが下手で友達のいない子供だった。
私がはっきり虐待を受けた、カウンセリングが必要と感じたのが21歳の頃で、当時それ関連の本を読み漁り、機会があれば自助会、カウンセリングを受けた。結果、自分の中の苦しみは随分軽くなった。対人恐怖も愛情飢餓も自分に対する罪悪感も・・楽になった。多分それは外部から見ても明らかにいい方向に変わったと分かるものらしい。
ただ問題なのは、この明らかに前向きな変化を多数派の人とシェアできるか・・と言うとなかなか難しい問題なのだ。だって虐待を受けた、カウンセリングを受けたなんてそうそう人に言えることではないのだから・・
「最近、調子良さそうだね?」「うん、カウンセリング受けててさ・・」とか「休みの日、何してる?」「フットサル」「バイト」「カウンセリング」とかちょっと会話として想像できない。
でも、私の変化は誰が見ても明らかに前向きな変化だったのでみんなシェアしたがる。仲良くなりたがる。私には虐待関連の本を読み漁りカウンセリングを受けた体験を飲み会やサークルに明け暮れるリア充大学生とシェアするなんてとてもできない。このジレンマが苦しい。
思うにマジョリティの人達は自分たちが「正義」でありたい。という気持ちが強いのだ。でもそれはいつもマイノリティの人に受け入れらるとは限らない。良く、私は少数派の同性愛者も外国人も差別しないよ・・というが、果たして同性愛者や外国人は多数派のあなたと必ずしも仲良くなりたいと思ってるだろうか・・?

だから、どうすべきか・・というとよく分からない。取り留めのないことだがふと思いついたとので書いてみた。