ドロップアウトしても満たされない理由、「やらなきゃいけないこと」が幸せをもたらす

ドロップアウトしても満たされない理由について考えてみた。以前派遣社員をしていた時自宅待機になったとき、最初は死ぬほど喜んだ。やりたくない事をやらないでいい。やりたいことをやれる。ただ喜んだのは最初の1週間だけで、後は毎朝起きるのは10時過ぎで、何をするでもなし、鬱々とした日々になってしまった。その時、動物学者でも心理学者でもない自分が考えて出した仮説
「人は「やりたいことをする」時「やらなくちゃいけないこと」があるときの両方が満たされて充実感を得られる。」

働いてるとき、マンション建設やら郊外店舗建設で、やりたくないことばかりだった。でも、ほんの少し充実感を感じていたとしたら、朝起きなくちゃいけない理由があって、することがあったからである。「やりたいこと」をしてなかったけど「やらなきゃいけないこと」はあった。自宅待機になったとき、好きな本を読めて、好きな講演にも出かけて、自炊もゆっくり好きなもの作れて・・でもどこか満たされない。朝が起きれない。人との交流がない。「やりたいこと」は出来ても「やらなきゃいけないこと」がない。

「やりたいこと」とは書いたけど、現在の世の中にはおよそ40年間歪んだ欲望がメディアによって作られ続けた世の中だから、余計なやりたいことが溢れている。ここでいうやりたいこととは、自分で納得できる経済システムの中で働くことで、出世欲とかメディアの煽る「かっこいい」職業とは別物である。

生産力の拡大が「やりたいこと」と「やらなきゃいけないこと」両方を同時に充たす機会を奪った。衣食住を充たし回すのに世の中の20%も働けば充分なんだろうか?私たちには「やらなきゃいけないこと」がない。

資本主義が嫌いなかたで、「したくもないことする会社勤めなんていや、田舎で好きな事して生きていくのよ。」って人はよく聞くけど、「したいことをすれば、幸せ」という発想自体が資本主義的なものであると思う。資本主義というより、ここ50年くらいの消費主義かもしれないが、週に5,6日は「やりたくないけどやらなきゃいけないこと」に山ほど縛られ、週末は「やりたいこと」をやる。それが普通のライフスタイルだと・・憶測だけど、こんだけメディア広告がしたいことを煽る以前の時代には「したいこと」なんてそんなになかったんじゃないだろうか?そのかわり「しなきゃいけないこと」がそれなりに各自にあったのではないだろうか?

野生動物のドキュメンタリーなんか見ると、彼らには生きるためにしなきゃいけないことがたくさんある。人間ももともとそういう動物で衣食住に事欠く時代が縄文時代からつい50年前まで続いていたのだ。でもそんな時代にも人は幸せを見出してたはずだし、人間の心の仕組みが50年で変わるとは思えない。

そう考えると、現代社会で幸せになることは本当に難しい。自営業で自分の理想のカフェとか店とかあれば「やりたいこと」「やらなきゃいけないこと」のバランスを取れるかもしれないが、95%ぐらいの人はどっちつかずになるんじゃないだろうか?現実には自由などない現場から・・・ - 社会考察日記 azalea 自分の記事で書いたけど、人はよく自分で自分に「やらなきゃいけないこと」を課そうとするがうまくいかない。村上春樹は「語学は自分で1日10単語覚えるとか、自分に課しても身につかない。現地に行き覚えなければ生きていけない環境に身をおかないと身につかない」と言っていた。

だから幸せとは自分で掴むものでなく、外圧とか環境からもたらされるものなんだろう。こう考えると資本主義への対抗=ドロップアウトなのか、色々考え直さないといけない。

おまけ
http://www.radiodays.jp/blog/hirakawa/?p=982
この本によれば日本人はほぼ1973年を境に、働くことは社会的儀のため、食ってくため、でありお金は不浄なものという価値観から働くことは消費するため、お金は人の能力を計る尺度に変わっていく。わたしは労働環境だけなら1973年以前の方が幸せなんだろうなと思う。
自分はこの記事に書いてあることを考えるようになってから、酒やタバコ、コーヒーなんかが楽しめなくなった。「やらなきゃいけないこと」には酒やタバコをおいしくする作用があることも忘れてはいけない・・のかな。