ムラの再生、下北沢、渋谷を訪ねて

これまで休日の過ごし方と言えば、地元の駅から出ずにひきこもりだったのだが、ここ最近出かけるのがあまり苦痛でなくなって少々都内の方にでるようになった。 特に印象が変わったのが渋谷と下北沢。あくまでも2,3時間滞在してご飯食べてお茶飲んだ程度なので、本当に適当な印象なのだけど・・

以前は渋谷が大嫌いだった。ギャル男、ギャル女、買い物しか楽しみがなくてジャンクフードばかり食べてる人が集まる街。 偏見なのは百も承知だが、そういうネガティブオーラがこの街を覆っていて、この街になるアングラ系映画館によく行ったのだが 街を歩くのが苦痛だった。 それが先日行った印象はなんていうか普通。人多すぎとは思うけど、あまりネガティブオーラを感じない。

逆に下北沢。活気がなくなったな・・て感じる。下北沢の魅力、それはチェーン店が少なく個人商店が多いこと。 それはいいのだけど、例えば音楽でもファッションでもテレビや雑誌に主流の流行に対する反抗が下北沢の魅力であったと思う。 音楽ならパンク、オルタナ、アングラミュージックを集めたCD店とか・・そういう価値観、連帯感が下北沢のパワーを生んでいた。自分もパンク音楽は好きだったので下北沢はそれなりに好きな街だった。 ただやはり思うのは、パンクというのは1に反抗すべき主流派があってのもの2に一過性のものであるということ、なのだ。 パンクファンはポップス、王道ロックが嫌いだけど、なんでパンクが面白いかってポップスや王道ロックがいるから・・ (それへの反抗だから)そしてパンクの方が主流派になったらそれはもうパンクじゃなくなってて面白い存在じゃなくなってる。

だから自分の勝手な解釈としては下北沢が面白い街だったのは企業の大量消費主義に対する反抗だけど、 渋谷のような街でさえもはや大量消費主義の街じゃない。だから下北沢はパワーを失った。

「確かに(高円寺に比べて)下北沢の方が自由感はあるけど、だからといって即、肯定にはつながらない。だって下北沢の自由って結局のところ『消費の自由』にすぎないもの。 それをみんなデモクラシーと錯覚しちゃってる」
上記は隈 研吾と清野 由美の東京にムラ、共同体を再生できるかという問いについての本からの引用。(新・ムラ論TOKYO – 集英社新書)さて東京にムラを再生できるだろうかという問い。高円寺には行ったことないけど、本を読むと高円寺のほうが希望はありそうだ。 わたしはムラを再生できる可能性があるのは貧困だと思う。なぜなら人間は必要に迫られてこそ行動できる生き物だから・・ 逆にムラの再生が主流に対する反抗ではだめだと思う。主流に対する反抗=パンクは一瞬大きなエネルギーを生むかもしれないが、 どうしたって一過性のもので終わるから・・ 高円寺でやってることを全国に広めようってそういう運動があってもいいのかなって思った。

人気ブログランキングへ