就活生が解放されるべきは自由の牢獄

大学生について考えたので、就職活動についても考えてみた。

「西欧のステレオタイプ的発想では、人間はしばしば選択せざるを得ない岐路に立たされ、そこでは同等の選択肢を与えられる。ここで自らの意志に従っていずれかの選択肢を選び出すことが自由の本質である。その結果生じた事態に対しては、選択した本人が責任を負う。ところがこれは現実に則していない。重い選択肢を行なう場合、逡巡と熟考の結果、全体が溶け合って一つの意味のあるパターンがおのずと立ち現れ「どうするべきか、今分かった」「なにをすべきか今分かった」そして「これがそうだ」。人間は「こうしよう」という形で決断するのでなく、「そうなってしまう」という形で決断するのだ。生きるための経済学 <選択の自由>からの脱却 安富歩
「私たちはエネルギー消費=体を使う、と考えがちで脳の消費する精神的疲労を見落としがちである。選択という作業は、情報を収集、分析、決断しなければいけない。だから選択肢が増えれば増えるほど選択にかかるエネルギーは2次関数的に増えていく。」「さらに選択と共に大きなエネルギーを消費するのが、感情の動き。とりわけ「不安」である。必要な情報を見落としてないだろうかという不安。後悔しないだろうかという不安。自分で自己責任で決めるので後で自分を責めるかもしれないという不安」しばられてみる生き方 軍隊式・超ストレスコントロール下園壮太

自由民主主義=良し、西洋的価値観に慣れ過ぎてしまった私たちは社会のステレオタイプ的価値観を離れ、現実に則した人生観を取り戻さなくてはいけない。現実的には「そうなってしまう。」「そうするしかない。」という形で人生を決断している。例え経済的に恵まれ親に好きにしなさいと言われてでもである。しかし世間的にはそういった人間は「つまらない」「かっこよくない」ダメなやつなのだ。

「高3の私は、家族、親戚皆大学を出てるため大学進学を考えざるを得なくなり、大学と学部を選択せざるを得なくなりました。大きな選択なので苦痛でしたが、1番の得意科目が物理という理由で、工学部を選ぶのが1番後悔するリスクが低いと思ったためそうしました。大学ではサークルに入らないと友達も出来ず、大学に居場所がないため、サークルに入らざるをえず、そんなに運動経験がなくとも入れるテニスサークルに入るしかなくなりました。暗いと思われると大学では印象が悪いので、積極的に話しかけ必然的にリーダーシップらしきものを発揮することになりました。大学4年になり就職せざるを得なくなった私は、父親と同じ職業を選ぶのがどうなるのかが予見し易いため、この職業を選び・・無難に大手に就職するのが数ある就職先から選択肢を絞る理由として適当であり、やはり後悔するリスクが少ないと思い、御社の面接を受けようと思いました。」

本音の自己アピールってだいたいこんなものだと思うのだ。自分の人生見ても、他人の人生見ても、「そうなってしまう」形式で人生は進んでいく。でも、面接でいい印象を与えるため、就活生は「積極的」で「野心的」な人物を演じなくてはいけない。
演じてるという自覚があればまだいいが、世間の価値を真に受け自分で自分を騙す、「自己欺瞞」に陥ってしまったら最悪である。内田樹氏も若者の「自分探し」を嘆いていたが、それは「自分のしたいことをしてる自分を探す」自己欺瞞だからなのだと思う。
戦時中は「戦争反対?貴様はそれでも日本国民か?」今時の就活は「しかたなく就職活動し、しかたなく御社を選びました?貴様はそれでも民主主義国家の若者か?」と言われてるような気がする。
それが就職失敗如きで自殺する原因でもあるような気も・・・


また社畜に対し批判的で若者は体制に反抗的でなくてはならず、起業したりフリーの職業を選ぶべきだと言う人もまた、自由民主主義社会のステレオタイプ的価値観にはまってるように思える。存在しない自由の神様を信じて拝んでしまってる。

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