空気読め文化の正体

KY「空気読め」という文化について考えてみた。日本は江戸時代から伝統的に「空気読め」さもなくば「村八分」だった。というが果たしてそうなのか?確かめるすべはないけど自分は違うんじゃないかと思う。
例えば、会議で部長が「何でも、自由に意見を言ってくれたまえ」、意見を言うと、机の下で蹴りが入って「空気読め」と耳打ちされた。あるいはその時の会議では「そうか検討しよう。」と言われたが翌日左遷された。等々・・「自分の仕事が終わったんで定時で上がらせてもらいます。」と言うとちょっと裏に呼ばれて「お前空気読め・・」上司に意見すると同じく・・・・実際の場面ではっきり「空気読め」と言われることはまずない。ただそうしないと居場所がない。という非言語メッセージが発せられるのだ。

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「ねむい」という言葉の意味は、その言葉だけには定まらない。意味が生じるにはコンテキスト(文脈)が必要である。たとえば夜11時に友達しゃべっていて、いいかげん疲れてきた頃に友人が「ねむい」と言ったのであれば、もう遅いからそろそろ切り上げようという意味である。恋人の部屋のベッドの中で胸の中に顔をうずめて、じっとして「ねむい」と言ったのなら、それは気持ちよくてとろけそうになっているという意味である。私が授業で一生懸命説明してるとき「ねむい」と言われたならそれはお前の話はつまらない、という意味の攻撃である。
ハラスメントを実現するメッセージは、最低限二つの命令からなる。一つ目は次の形式のどちらかになっている。「これをするとお前を罰する」「これをしないとお前を罰する」これに対して、二つ目の命令は普通、言語以外の方法で伝達されるが、無理に言葉にすると「これは罰ではないのだよ」「わたしがおまえを罰するような意地悪な人間だと思ってるんじゃないだろうね」「これをお前に許さないのはお前を愛するからこそだ。」
親が「お前は疲れてるんだから、もう寝なさい。」と言うとする。このような子供に対する発言は、よくあることで何気ないものに見えるが実のところ危険な意味を含んでいる。なぜなら、言葉そのものは「私はお前を愛してるから、その体を気遣っている。」ということを示してるが、同時に「おまえにはうんざりだ。うせろ」という本当の感情を否定する意図が含まれてるからである。子供には愛される権利がある。しかし、親が誰にも愛された経験がなければ、自分の子供ですら愛することはできない。愛される権利を奪われた子供は不幸ではあるが、それでも親がその愛情の欠如を露呈してくれるならまだましである。先ほどの場面で言うなら「今日は十分お前と付き合った。こっちはもうクタクタだ。とっとと寝てくれ。」というなら針はあるが真綿には包まれていない。「お前を愛していない。」というメッセージと「愛されていない」という感覚が矛盾していないなら、子供は自分の感覚をそのまま信じることができる。子供は正しく親を憎むことができる。親が自分に与えてるものが愛ではない。と理解できるなら、誰か自分を本当に愛してくれる人と出会うことができれば、それが愛であることが分かるだろう。
母親は子供が近づいてくると、敵意や拒絶の態度を示す。そしてその敵意に気付いたそぶりを見せた子供に対して、自分の敵意を隠蔽するために愛の装いをする。子供がおかれたこのような理不尽な状況は「ダブルバインド(二重拘束)」状況と呼ばれている。
ハラスメントは連鎖する/安富歩、本条晴一郎
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奴隷制が廃止された理由です。奴隷制は奴隷の面倒を見なければならない。 強制的に働かすには暴力で脅す必要があるので、軍隊のコストがバカにならない。 それに無理やり働かせてるのではモチベーションがあがらないから生産性が悪い。 それより解放して、一生懸命働けば豊かになれると思わせた方が、 進んで働くから生産性が高いわけです。でも、実際は賃金を管理されているから、 いくら一生懸命働いても豊かになれないのですが・・(植民地が独立できたのも 同じ理由による)」金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った (5次元文庫)

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KYの元凶は民主主義の建前、働いてみればファシズムという実態にある。さてなぜ民主主義が大事かというと、民主主義=世の中は正しく適応に値する、という建前があるからことそ、人々は自ら進んで働かねばならない。会社には「指示待ち人間」に居場所がない。そういう空気が作られている。だから労働は強制だが、それを強制だと気付いてはいけない。というダブルバインド状況に置かれている。

非言語メッセージは言語メッセージよりも強力だ。「上司の命令は絶対だ。」と言語化してしまうと「部長、ここは独裁国家じゃないんですよ」と反論されてしまうかもしれない。「サービス残業しろ。」と言うと「社長、それは労働基準法に違反してます。」と言い返されるかもしれない。だから非言語メッセージの「空気読め」を使う。

家庭を例に出せば、「おまえを愛してない」とはっきり言える家庭はまだましなのだ。それよりも世間体を気にして愛してるふりをする家庭の方が危険だ。江戸時代の方がましだったとのでは?思うのは江戸時代ならはっきり「将軍様の命令は絶対だ」と口に出して言えたし、庶民もそれを自覚し受け入れていたのでは?と思うからなのだ。

だから、自分としてはもっと「空気を読む」のではなくて「空気を語ろう」と提案したい。上司にはっきり言いづらければせめて同僚同士の飲み会の場でも・・「労働基準法って存在してないよね」「うちの会社はファシズム組織だよね。」「○○しないと居場所がないってことは○○は強制ってことだよね。」等など。後輩ができたら「うちの会社はサービス残業とか強制だから、逆らったら居場所がない独裁組織だから・・」とはっきり口頭で教えてあげたい。「空気読め」を受け入れてしまうとその手の話題に触れないようになる。そうではなくて積極的に話そうよ・・と。