僕らは自分で思うほど個性的でなかった

最近、廃れつつあるmixiを見てて思うのだけど、自分のコミュ、自然農、アダルトチルドレン、パンク音楽、その他もろもろあんまり自分にとって意味をなさなくなってきたなと思うのだ。

消費文化の影響が強くなると、個人差がが強くなる。つまり個性が強く感じられる。価値観の差が強くなり、それが服装、音楽、映画、読んでいる本、・・に現れる。消費文化の下では、まず消費に対して積極的な人、消極的な人に分けられる。例えばファッションだったら今流行りのファッションをする人、流行りからワンクラス上のおしゃれをしたがる人、流行りと逆行すようなヒッピーとかパンク系のファッションをする人、全くおしゃれに気を使わない人、。だから服装でその人の価値観がある程度予測できたりしたのだが、今はできない。服装にとくにこだわりのない人が多数派を占めると難しい。

自分では今まで誇るべきアイデンティティーと思ってたものが実は消費文化の下に作られてた。それは残念だけど事実だ。最近の傾向として音楽や映画は特に聞かない。服装にも特にこだわりがない。そういう人が増えている。だから個人差をあまり感じない。

自分は今30前半だけど消費文化の下で育った。1970年代から始まって今消滅しつつあると言えるのだろうか?日本人には当たり前の価値観でもあくまで消費文化の下での一過性のものにすぎないものがいくつかある。例えば自由恋愛における運命の人・・就職活動におけるやりがいのある仕事・・

「戦後の民主化の流れの中で、恋愛結婚の割合が増えていき、1970年前後を境に、恋愛結婚と見合い結婚の割合が逆転します。つまり見合い結婚が初体験システムとして機能しなくなります。ここにきて「結婚は恋愛の延長線上にあるもの」という概念が登場します。「恋愛相手がいなければ、結婚できない。」「だからこそ恋愛すべき」という風潮が広まるのもこの時期からです。恋愛、結婚とセックスが「三位一体」で結びついていたのは、わずか30〜40年程度のごくごく最近の話にすぎません。現在私たちが「常識」としている価値観は歴史的にみると必ずしも「常識」でないことが分かります。」セックスヘルパーの尋常ならざる情熱/坂爪真吾
恋愛というものは消費の時代の一過性のものにすぎない。まじめな恋愛というのはどこかに価値観のあう運命の人がいる。という前提がある。未婚率が高まるのも必然である。

仕事、就職についても同じである。昔は仕事なんて何でもよかった。食うためにはやらざるを得なかったし、やれば社会の役に立った。だから自分にあったやりがいのある仕事なんてものに悩む必要はなかった。それが変わったのは消費の時代になり、働く目的が食うためでなく消費のためになったからであり、仕事が本来いらないものを作って売る・・という生活に直結しないものになったからである。そこで「自分にあった」「やりがい」が必要になったのだ。
戦後から73年オイルショック辺りまでの日本人は、「義」のために働き、食うために働いていた。働くことが社会につながってる実感があった。だがそれ以降、日本家庭のエンゲル係数は3割を切る。つまりは食うために働く時代ではなくなった。お金と消費のために働く時代になった。そしてその労働観のまま、バブル崩壊以降、労働モラル崩壊の時代に入っている。「移行期的混乱/平川克美

結婚にせよ、就職にせよ、選ぼうと思えば無数にあってその中から自由に選べ。選ぶ手段として「価値観」がある。だがその価値観は消費の時代の一過性のものにすぎない。幻想かもしれない。だとするとどうやって選べばいんだろう・・?

消費の時代が終わることで差異としての個性は感じなくなったが、その分壁がなくなったようにも感じる。昔は政治、経済、哲学の話を学生の合コンみたいな場では話せなかった。マニアックな音楽、映画もメンタルヘルス系の話題も話すと引かれるから話せなかった。そういう壁が少し減ってきてるように思える。

世の中から消費が完璧になくなる時代、ミクシィで同じ価値観の人を探さなくても、隣に住んでるご近所さんと普通に話して、飲みに行ったり出来るようになるのかもしれない。結婚相手なんて熱心に探さなくても、その辺にいる人でいいのかもしれない。