生き辛さと居場所のなさと・・・

ここ数か月、生き辛さと居場所のなさという問題が自分のなかで大きくなっている。自分個人の中では10年前から重要な問題なんだけど、社会問題としてここ最近とこれから大きくなりそうな気がする。

文明、テクノロジーが発展すればするほど、この問題が大きくなる。昔は衣食住に飢えていて、衣食住さえ満たされれば人は幸せなはずだった。衣食住は満たされてるんですけど、心が満たされないんです。と言えば、お前はいったい何を贅沢言ってるのだ?と叱られたのだ、多分。けど今の世の中飢えているのは極一部・・(とりあえず現代の貧困問題はわきに置かせてもらう)大量生産により飢えが解消されれば幸せになるはずだったものがそうなってない。私たちはこの問題をどうやっても無視できない。

逆に昔はそうせざるを得なかったもの。飢えないために働かざるを得なかった。生きていくために協力せざるを得なかった。子孫を残すために結婚せざるを得なかった。そういったものが与えてくれた幸せを私たちは失っている。私たちは50年前より不幸だ。そんなのは贅沢だ。ゆとりだ。と言われようともそれは認めないといけないと思う。

私が思うのは人が居場所を確保するために無意識的に行ってる行動についてもっと自覚的になった方が良いということだ。例えば学校には友達がいないと居場所がない。友達を作るために見えない同調圧力に従っている。例えば流行りの音楽、テレビにどれだけ本当に好きなものがあるのか?仕事なんていやいやするなら辞めればいいと人はいうが、辞めた時に世間に居場所はあるのか?本来家族というのは仕事や学校が死ぬほどいやになったとき居場所を与えてくれるもの・・なはずなんだが、仕事や学校を辞めると家にも居場所がなくて自殺する人は多い。

居場所とは衣食住以外にも人間が生きていくのに必要なものは沢山あるということなのだ。コミュニケーションを取る相手・・話し相手がいないのは辛い。行動規範を示してくれる組織・・恋愛、結婚、就職等なんでも自由にやれと言われてもどう行動していいか分からない。有意義な仕事・・何もすることがないのは辛い、なにか有意義なことをして過ごしたい。所属組織・・なんかしらアイデンティティーをくれるもの。

問題点は人が生活について語るとき、収入と労働時間だけで、語ってしまうこと。生活保護についても問題なのは人はお金だけでは心が満たされないにも関わらず、生活保護をもらってるやつが不満など贅沢だ・・という議論になってしまうこと。もっとこころについて大っぴらに議論できれば良いのだが・・・