承認欲求を捨て共同体を作るには・・(アドラー心理学)

最近アドラー心理学を知り、承認欲求を捨てた生き方について考えたのだが、承認欲求を捨てるというのはかなりストイックな行為だという気がしてきた。なぜなら女の子にもてても喜んではいけないのだから・・。果たして人は承認欲求という誘惑に打ち勝てるのか・・?

世の中には一定の割合でモテる人がいるが、モテるって果たして幸せなんだろうか?モテる要素は容姿や運動や勉強、年収、人柄等色々だけれど、つまり承認欲求が満たされてしまうという事は幸せなんだろうか?どんなに愛情に満たされた幼少期を過ごしても承認欲求に飢えないということはありえない。例えば会社で年配の人を観察すると意外とモテそうな人ほど結婚してなかったりする。結婚=幸せではないけれど、モテる=承認欲求を満たすことで共同体という感覚を持ちづらかったのでは・・?とも思ったりする。モテることに慣れてしまうと自分が承認欲求に飢えてる事に気づくことができない。特に愛情不足な家庭で育った人がモテた場合これはけっこう悲劇だと思う。

人間関係のつくり方には2つある。承認欲求を捨てたところに出来る共同体と、承認欲求を満たすためにできる人間関係。昔の田舎の方では人との繋がりが濃くて共同体があるが、今の都会では希薄、それは都会では助け合わなくても生きていけるから・・ではなくて今の都会では手軽に承認欲求を満たせてしまうから、昔の田舎では満たしたくても満たす手段がなかったからなんじゃないだろうかと考えてみた。

都会では何か消費活動をしないと友達ができない。ある程度のオシャレとか趣味、流行りの話題についていけ、カラオケや飲み会等に参加しないと友達が出来なかったりする。それは消費することで、友達がいないと恥ずかしいとされる世の中においてお互いの承認欲求を満たしてるんじゃないだろうか?スタバでコーヒーを飲む、ユニクロの服を着る、吉野家で牛丼を食う、そういう一つ一つの消費が人口密度の多い都会の環境のなかで承認欲求を満たすことにつながる。

都会の若者は以前ほど消費しなくなってるが逆に究極のお手軽承認欲求装置としてのスマホ、ネット、SNS等が台頭してる。かつてののどかな田舎ではファスト風土化が進み、田舎の若者がスタバやユニクロのようなブランドを消費することで承認欲求を満たしてる。

ここまで書くと承認欲求を否定するにはとりあえず消費を止めれば、いいだけじゃない?と言われそうだが、私も今まで資本主義に対する反体制運動的なものに色々参加してきた中で考えるとそれだけではダメなのだ。

それはかの反ロスチャイルド同盟や田舎で無農薬農業をやろうとか一切のお金に関わらない生活を送る等など・・もちろん活動の主旨には大賛成なんだけど、「人と違うことをやってる自分を承認して欲しい」という気持ちがどこかで出てくる。もちろん本人としては世の中を良くしたいの一心でやってるのだけど、活動の主旨自体が「人と違うことをしてそれを世の中に認めさせる」「普通の人生なんてくそくらえ」だから嫌でも承認欲求との結びついてしまう。その辺が難しいところ・・

承認欲求に飢えてる事が「普通」の世の中において、承認欲求を捨てて「普通」になりたいと思うと頭がこんがらかってくる。

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