「消費をやめる」をアドラー心理学的視点から解釈してみた。

平川克実著の「消費をやめる」をアドラー心理学的視点から解釈してみた。

「消費とは承認欲求を満たすための行為である」
「承認欲求に囚われてると共同体的感覚を持てない」
という2つの前提を建てて考えてみる。一つ目は私が考えた前提で、二つめは「嫌われる勇気より抜粋。

昔の人(現在八〇歳くらいの人)は生活必需品以外で欲しいものなどなかった。商店街は毎日そこへ行き自分が生きてることを知らせ情報を交換するための場所でした。商品交換は2次的な行為でしかなかったのです。それがやがて生きるということが「労働」から「消費」へと変わる。・・・内田樹君がよく言うのは人間は他人の欲望を欲望するものです。他人の欲望を模倣すると言ったほうがいいかもしれません。他人の持ってるバッグを自分も欲しいと思うように・・しかしそれならみんなでヴィトンのバッグを持てばそこで収まるはずです。ところが人には他人と同じでありたいと同時に他人と違っていたいという気持ちがある。ある一定数が同じものを持つとそれは陳腐化してしまう。他人を欲望すると同時に他人からも欲望されたいと欲望し、自分は違うものを持とうとするのです。(「消費」をやめる。銭湯経済のすすめ 平川克実著)


よく言われるのがコンビニの出現で醤油や味噌を貸し合うような人間関係は不要になった。だから昔のような共同体感覚がなくなった。私もそういうものだと考えていたがアドラー心理学的に考えるとそうではない。共同体感覚がなくなったのは人々が消費するようになったからである。消費で承認欲求を満たすようになった。承認欲求に囚われるようになったから共同体感覚がなくなったのである。

昔(戦後すぐ)は消費する物も金もなかった。他者からの承認を得たいと思ったとき、東京で一旗あげて成功するとなれば、リスクを冒して10年20年もの下積みを経て成功しなければならなかっただろう。才能も必要になる。だから昔の人は承認欲求を諦めてたのだと思う。
それが1950年代半ばになると消費の対象が現れる。それはテレビを通して紹介されるアメリカ的な生活なのだが・・思うにそれ以降今に至るまでの消費の変化というのは、よりお手軽に承認欲求を満たせるようになるための消費文化の変化だと思うのだ。
私が子供の頃でもバブルだったので、承認欲求を満たすための消費とは高い車、ハワイ旅行、高給ブランドバック・・値のはるもので、簡単に手に入らないからこそ価値のあるとされるものだった。それがもっと安価な消費でも承認欲求を満たせるようになる。(景気のせいもあるだろうけど)次に来たのはブランドだと思う。別に高給ブランドでなくてもいいのだ、ユニクロでもスタバでも吉野家でも・・なにかしらのブランドを消費することで承認欲求を満たしていた。誰でも消費で承認欲求を満たせるようになった。逆に消費しない人には居場所がない社会にもなった。流行や買い物をしないと学校での話題についていけないのだ。次の変化が田舎にイオンができたこと。これにより地方の人間がわざわざ消費による承認欲求をみたすのに東京まで出てくる必要がなくなった。そしてインターネット、スマホSNSこれにより電車の中でもスマホを取り出し5分でツイートして1日待てばお気に入りがついて承認欲求が満たされる時代になった。昔なら10年かけてた事がほんの5分と1日で出来るようになったのである。

私の子供の頃は親同士の近所づきあいも多少あったし、友達の家に遊びに行けば友達の親とも顔見知りになり、共同体感覚も多少残っていた。それが中学になると友達を作るのにオシャレしたり、カラオケとかボーリング等遊ぶのにお金がかかるようになった。高校になるとそれがエスカレートし、大学になると消費しないもの人にあらずのような環境。大学で感じたのは人間関係の薄さ・・である。お互い承認欲求を満たし合うだけで、本当に人生において困ったときに助け合うような共同体感覚は皆無なのだ。

共同体感覚がないから承認欲求に飢える。承認欲求に囚われるからますます共同体感覚を失う。この悪循環。

さて、ここからが大事だけど、消費を止めれば共同体感覚が戻って来るかと言えばそうではないのである。著者も最近流行りのエコロハスに疑問を持ってるが、逆に消費しないことで承認欲求を満たそうとするのが良くないのだ。極端に消費しない生活や田舎暮らしを送るとそれをブログにアップしたりして誰かに承認して欲しくなる。それだといつまでも昔の共同体感覚を取り戻せない。

承認欲求は、禁欲的に我慢するものでも、戦って打ち勝つものでもなく、あきらめるものだと思う。承認欲求とは「追いかけても追いかけてもつかめないもの」であり、酒やタバコのように気休めになっても、私たちを救ってくれるものではない。逆に承認されないでいいやとあきらめた方が人生楽しくなる。それを悟る事が大事であると思う。

「消費」をやめる 銭湯経済のすすめ (シリーズ22世紀を生きる)

「消費」をやめる 銭湯経済のすすめ (シリーズ22世紀を生きる)