民主主義と希望を捨てることが幸せにつながる

ここ最近の記事から考えたのだけど、世の中を良くしたいと考えのもと始めた、市民活動や生活スタイル等が、いつの間にか自分を認めて欲しい、他人よりも優れていたいという承認欲求に囚われてしまうのは何故なんだろうと考えてみた。

「誰かに質問されてもいないのに、自分が戒律や正義を保ってるのを他人に言いふらしたがる人は、まさに自分についておしゃべりしている。そんな彼を智者たちは汚れた人と言うだろう。(スッタニパータ経集)世の中のほとんどの人は誰に聞かれてもいないのに「エコカーに乗ってる」「節電のために○○してる」じぶんについておしゃべりしてるのです。」(ありのままの自分に気付く/小池龍之介

私もNPO団体や反原発運動等に関わったし、そこで知り合いも出来たから、彼らの事を悪く言うつもりはない。「節電してる」「有機野菜しか食べてない」等他人にいうのは、それが世の中に広まってほしい。広まればいい世の中が来るはずだと思っているからである。ただいつの間にか、それがエコな自分は他人より優れてる、エコな自分を認めて欲しい、という気持ちがどこかに生まれてしまう。それはそういう活動していると、逆にエアコンに頼ったり、ジャンクフードを食べてしまったら、自分には生きてる存在価値がないということになってしまう。自己評価の低さにつながってしまうからだと思うのだ。自己評価の低い人間こそ承認欲求を求める。

そもそもデモや選挙や消費活動によって、世の中良くなるという考えのもとには西欧民主主義を善とする考えがある。けど実際には色んな市民活動をしてみても大した成果はあがらない。そうすると活動目的が承認欲求へとシフトしてしまうのだと思う。さらに悪いことに、承認欲求に囚われると違う価値観の人とコミュニケーションが取りづらくなる。過激な反原発運動をする人と趣味がゴルフのサラリーマンが対話すると気まづいだけでちっとも会話にならない。そんな気がする。この辺が「承認欲求を捨てたところに共同体感覚を得ることができる」というアドラー心理学に合致する。

民主主義が目指す希望にあふれた幸せな世の中とはどんな世界だろう?人が幸せをイメージしたときそれはどこか自身の承認欲求が満たされた瞬間をイメージしてしまってると思うのだ。民主主義と資本主義って対立するようで実は仲がいい。むしろ幻想の民主主義が作る希望など捨ててしまってはどうだろう?絶望してこそ承認欲求は捨てられる。

幸せとはどこか憂鬱な時間の中にあるものだと思う。まだ民主主義なんてない時代、人々は戦争や災害に巻き込まれて苦しんだとき、諸行無常の世の中で承認欲求を捨てることが心の平安を得る最良の方法であったはずである。それは忘れただけで今でも変わらない。

承認欲求は連鎖する。
内田樹君がよく言うのは人間は他人の欲望を欲望するものです。他人の欲望を模倣すると言ったほうがいいかもしれません。他人の持ってるバッグを自分も欲しいと思うように・・しかしそれならみんなでヴィトンのバッグを持てばそこで収まるはずです。ところが人には他人と同じでありたいと同時に他人と違っていたいという気持ちがある。ある一定数が同じものを持つとそれは陳腐化してしまう。他人を欲望すると同時に他人からも欲望されたいと欲望し、自分は違うものを持とうとするのです。(「消費」をやめる。銭湯経済のすすめ 平川克実著)

もしあなたが可愛い彼女と車と家を手に入れても、うらやましがってくれる他者がいなければ承認欲求を満たせない。オヤジ世代が草食系の若者に苛立つのもそこだ。もしあなたが承認欲求を捨てればそれは周りの人間に伝染し連鎖するだろう。つまり国民総生産承認欲求量が減っていくのだ。資本主義に対抗して反消費運動をしても承認欲求を捨てなければ意味がない。人は絶望してこそ幸せになれるものだと思う。