承認欲求を捨てようとすると小学生の頃の感覚がよみがえる。

最近、如何に承認欲求から逃れるか?そして承認欲求から逃れた後どう生きるのか?というのが人生の最重要テーマになってきている。そうするとだんだん小学校3、4年生頃の記憶・・というより感覚がよみがえってきた。

私は機能不全家庭に育った愛情と承認欲求に飢えた子供だった。運動は苦手で特に勉強ができるというわけでもなく、流行にも疎いし、人を笑すようなひょうきんな子でもなく、喧嘩が強いどころか喧嘩すらできない、なにか特技があるわけでもない。スクールカーストで言えば下位グループに属してるような子供だった。本来は・・

小学校3、4年生の頃、普通の学校生活であった。カースト下位グループの友達と一緒に遊んで特に目立つ訳でもない平凡な生活。機能不全家庭だったから毎日憂鬱でつまらなかったけど、今思うと極めて健全だった。ところが小学校5年生になると、スクールカースト上位の男子が私のことをキャラ的に気に入りだした。カースト上位に属してるのか下位に属してるのか、よく分からない立ち位置になる。カースト上位の女子も私のことがカワイイからと気に入りだした。周りから「あいつ、調子のってねえ?」という声が聞こえた。

承認欲求に飢えた小学生の私にその誘惑に勝てない訳が無い。手に入れた「特別な自分」は「憂鬱な平凡な自分」から逃れる最高の手段であった。カースト上位に気に入られるカワイイキャラを積極的に演じるようになる。そうすれば親から愛されてないという現実から逃れられた。だがそれと同時に無気力、無感情にもなり、中学の途中で今までの友達から全て縁を切られた。中学、高校と承認欲求に飢える自分と、逆に承認欲求を満たしてしまうほど、無気力、無感情になっていく自分とのジレンマに苦しむ事になる。

アドラー心理学にライフスタイルという言葉があるが、その時「特別な自分」でいたいという私のライフスタイルは出来てしまったのだと思う。

大学に入り、機能不全家庭を自覚し、底なし沼のような飢えるような承認欲求からは開放された。だが、大学生活、就職活動に社会人生活に全く馴染めない私は反資本主義的活動に傾倒していく。別にそれ自体間違ってなかったが、それはどこかで「特別な自分」願望と繋がってしまった。玄米生活とか無農薬野菜生活、健康にいい分にはいいが、いつのまにか人と違うことをしないと自分には価値がないように思えていた。

そして今に至るわけだが、今承認欲求を捨てようとすると、23年分の記憶をすっ飛ばして10歳の頃に帰るような感覚に陥る。憂鬱で平凡で代わり映えしない日々、休み時間サッカーをしたり、公園でポコペンしたりして楽しく、体育の時間で恥かくのがいやだった・・でも今思えば1番健全だった。あの頃は機能不全家庭で暮らしてたけど、今は家を出て一人暮らしだ。

思えば中学の頃から、オシャレしたり、不良っぽい事したり、男女交際したり、承認欲求を満たす手段が急激に増えたように思える。普通で無個性なやつはつまらないとされ、人と違う特別なことが褒められた。就職活動であれ消費活動であれ左翼的活動であれ・・・思うに承認欲求を満たす手段がなかった時代というのはほとんど誰にとってもどこか憂鬱な記憶なんじゃないだろうか?そして、そこから逃れようとしてきた。でも時代的に僕らはそこへ戻らないといけない。今はそういう時代なんだと思う。