幸せのメカニズム 幸福を再考する

久しぶりのブログ更新、最近思うのは価値観が目まぐるしく変わる時代、そもそも幸せってなんだっけ?ということについて問い直さないといけない。

ということでこの本を読んでみた。

年収は7万5千ドルを超えると、感情的幸福は比例しない。しかし、人間には更にお金が欲しいと思ってしまうフォーカシングイリュージョンに陥っている。フォーカシングイリュージョンは直訳すれば「幻想に焦点を当てること」
幸せをもたらすものとして、地位材と非地位材がある。地位材とは他人との比較できるもの。年収、社会的地位、車、家、服などの物的材、それに対し非地位材とは健康、愛情、社会への帰属意識など他人が持ってるかどうかに関係なく喜びが得られるもの。地位材による幸福は長続きしないが、非地位材による幸福は長続きするという特徴があります。
人間は、自然淘汰に勝ち残って進化してきた。よって、子孫を残すのにより有効なことを目指すようにできている。子孫を残すために重要なことは、競争に打ち勝つことだ。人間は競争に勝つとうれしいようにできている。だから、他人との比較優位に立てる地位材の獲得を目指してしまうのだ。しかし自然淘汰とは人間の幸福など歯牙にもかけない。なぜなら自然淘汰とはどんなに惨めな人生を送ることになろうとも生き延びて子供を作ることだから・・・
今40代の上司が辛そうなのは、車、家、社会的地位などの地位材による幸福が続いてないからなのだと思う。日本では戦後の経済成長が順調に続きすぎたから、地位材による幸福は永久に続くのでは・・といフォーカシングイリュージョンに陥った。それに対して今の20代は価値観の変化を経験してるのでより非地位材に焦点を当ててるので幸福感が強い。というのが私の見解。

わたしのもう一つの見解として、例えばボランティア活動とかデモや市民運動、田舎暮らし、あるいは登山、釣り、スポーツ、などの趣味そういったものも地位材であり決して長続きするものではないということなのだ。反原発運動だって原発がなくなれば終わるわけだし、反人種差別運動もそうだ。わたしもかつては音楽が好きで洋楽ロックなどを聴き漁ってた。30代40代になっても同じ趣味だと思ってた。しかし音楽が社会的影響を及ぼさなくなると、急に興味を失ってしまった。つまり人間どんな行動にも他人との比較により、自分をアイデンティファイしていて、本当に非地位材と言えるのはごく僅かなものしかないということなのだ。

ここで現代人がなぜなかなか幸せにたどり着けないかを再考すると、人間は自己実現によって幸福を得るという、現代の常識が怪しく思えてきた。例えば昔はつきたい職業なんてつけなかったし、仕事はつまらくてきつかったし、事故や病気でいつ死ぬか分からなかった。けどだからこそ、ほかの人には幸せになって欲しいとも思えたんじゃないか・・と
現代の常識では選べることは幸せだとなってるが実際には選択という作業は不安と自己責任というストレスのかかる業であり、幸福とは程遠い。
「最初の数年は「あの人より自分の方が高給だ」とか「自分の仕事の方が高い評価を得ている」というような同族間の比較がモチベーションを維持するかもしれない。だが、そのようなものはいずれどこかで消えてしまう。その後の長い時間は自分自身で自分の労働に意味を与えなければならないけれど「自分のために働く人間」にはそれができない。私たちの労働の意味は「私たちの労働成果を享受している他者が存在する」という事実からしか引き出すことができないからである。」ひとりでは生きられないのも芸のうち/内田樹
幸せは間接的にやってくるのだ。一見幸せとは違う別のアクションをした結果としてまるで突然のご褒美として幸せはくる。
私はACだったので、カウンセリングであなたは人のニーズに敏感に反応しすぎて自分がなにをしたいか見失ってますと言われた。でも自分のために生きるってなんだろう?結局他人を幸せにすることでしか自分も幸せになれない。もちろんそれは他人を不幸にする共依存とは違う。新しい時代の幸福感なのかもしれない。