小林よしのり「戦争論」の功績

http://www.poco2.jp/special/talk/2015/09/kobayashi-sealds/
Sealdsの代表者と小林よしのり氏の対談が興味深かった。興味深いのは2002年頃の「戦争論」がヒットがその後のネットウヨク、在特会なんかが発生するきっかけとして今の大学生の間にも認知されてるんだなってこと。

色々批判もあるだろうが、自分も「戦争論」だけは好きだった。その後韓国、中国人叩きに走るのは絶対違うと思ったけど、「戦争論」についてはこういう事を言ってはいけないということは絶対ないと思った。

改めて「戦争論」の何が良かったのか考えて見るのだが、右傾化、左傾化の問題ではない。私は「political correctness、略称:PC」政治的正しさ思考からの脱却だと思うのだ。政治的に何が正しいのか決めるのは戦勝国で日本は敗戦国だから、そこから脱却しようとすれば右翼になるのだろうが・・

私には「戦争論」が出るまでずっと日本での議論にはずっとある種の「フタ」がしてあって戦争を正当化してはいけない。中韓は被害者だから悪く言ってはいけない。疑ってはいけない。その先の自由な議論が出来なくて先へ進めない閉塞感というのが確かにあった。(それを打ち破れたのはある意味小林よしのり氏があまり社会的地位の高くない漫画家だったから・・であると思う。例えば村上龍氏なんかはそれに気づいてたけど、多分社会的地位があるからあんまりぶっちゃけられなかったのだと思う。)

けどその怒りを韓国人やらにぶつけるのは違くて、そうではなくて例えば、ヒトラーもひどいけどスターリンは?毛沢東は?どうなのか?そもそも植民地がいけないならいつの時代まで溯るのか?アメリカとかオーストラリアとかって国自体があることがダメになっちゃうのでは?そういう議論を自由に積極的にすべきなのでは・・

PCは西洋人的でもある。1番人種差別がダメと言ってる西洋人が1番の人種差別者であるからだ。だから上辺だけの正論なのだ。人種差別的な発言を公ですると厳しく罰せられるけど、職業、収入を見ると明らかな人種差別がある社会とか・・女性首相や女性役員はいるけど就職に関しては明らかな女性差別のあるとか・・日本人はアジア人だからそれには乗っかれない。

相変わらずsealds関連の議論を読むと右翼対左翼・・で13年まえから進歩がないように思える。日本の安保法案を世界の国々と照らしあわせてみるとか?戦争しないですむ、1番低コストで現実的な方法を模索するとか?世間的には毒舌、ぶっちゃけと言われる議論をもっと当たり前にしていけたらいいのに・・と思う。そして西洋の偽善としてのPCを打ち破るのは日本人にしか出来ないことなのかもしれないのだから、在特会ネトウヨなんかは韓国人や中国人なんかに憎悪を向けてないで、PCから脱却した日本人にしかできない議論をすべきなのだ。

ネット上で韓国や中国が人気のある理由

もうブログはやめ時かと思ったけどちょこっと再開

私は基本的にネットで何か書くとき、イタイ記事にならないように気を付けてる。それがいいことなのかよく分からない。でもなるべく冷静に感情的にならずに、自意識過剰にならないように気を付けてる。ところが先日ちょっとおふざけで匿名掲示板に「コンビニで女性店員がサービスしてくれた、これって脈あり?」みたいな記事を書いてみた。そうすると普段はコメントなんて付いたことなかったのに驚く程短期間にコメントが沢山ついたのだ。

そこで思うのは、ネットの世界では皆自分より「イタイ奴」を探してるってことなのだ。自分よりバカ、自意識過剰、そんな奴に会うと安心するのか、嬉しいのかよく分からないがコメントが沢山つく。

そこでヤフーのニュースランキングを見てみると、これがまた中国人観光客が世界でこんなイタイ事しました。中国政府がこんなイタイ事、韓国政府がまた○○が韓国起源だとイタイ事を・・そういう記事ばかりが上位に来るらしい。通常これを嫌中、嫌韓と呼ぶらしいのだが、これは逆で中国や韓国がイタイから(イタイというイメージがありニュースにしやすいから)こんなに大人気なんじゃないだろうか?中韓は確かに日本にとって影響力はあるかもしれないが、ドイツ、アメリカ、インドその他もろもろ影響力のある国なんて沢山ある。でもイタイニュースを書きやすいのか本当にイタイニュースを提供してくれるのか分からないが、やっぱりみんなイタイ中国韓国のニュースを見るのが大好きなのだ。

と思った。

若者の○○離れ・・が納得できない根本理由

若者の○○離れについてもうけっこう飽きてきた問題ではあるのだけど、上の世代がそれを受け入れられない根本理由を考えてみた。それは結局「若い世代の方が、愛されて育っている」という所にたどり着くと思う。

私はもう33歳で若者からオヤジ世代になろうとしてるのだろうけど、最近の小学生や甥っ子の育ち方を見てると、我々が当たり前と言われて受けた教育は本当に虐待だったんだな・・と思う。やんちゃな男子生徒はちょっと規則を守れなかっただけで殴られたり、立たされたり、サッカークラブでは根性鍛えるためと称して暑い中何周も走らされたり・・それは戦時中の虐待の連鎖だったのか・・子供は粗雑に扱うのが当たり前であった。中学になるとヤンキーになる子が増えた。ヤンキーになってでも注目を集めたかったのはそれだけ当時の親、学校、社会が子供に無関心だったということである。

今の世の中は子供の心の教育や虐待に対する関心がずっと高まってきてるし、とても社会としては健全になってると思う。それは今30代、40代、50代の人が親として教育に関わってるのだから上の世代も大半の人は自分の受けた教育というものが虐待と認識してるのかと思う。

ただ、その自分より愛されて育った若者が車や恋愛に興味を示さない事をどうにも受け入れなられない。自分の持論としては、愛された子供は自己肯定感が高い、なので劣等感がない、劣等感を埋め合わせるために物や異性を所有しようとは思わない・・なんだけど、この考えを受け入れられない人はけっこういると思う。


http://www.chunichi.co.jp/article/living/life/CK2015021302000005.html?ref=rank

承認欲求を生む発展社会、と所属欲求を生む維持社会

最近ずっと、承認欲求を手放そうと努力してる、でも承認欲求を手放したらそこに空いた穴を何かで塞がなければいけない。それが所属欲求なんだという感覚が最近分かってきた。なので33歳にもなって最近習い事を幾つか始めた。

我々は発展社会しかしらない。100歳のおじいちゃんでも・・むしろ年寄りの方が発展することに慣れきってしまってる。経済発展や人口の増加はすでに終わり始めてる。しかし、発展社会に慣れきった私たちはその思考習慣、行動習慣からなかなか抜け出せない。

それは、常に新しい新商品を求める消費者思考だけでなく、反資本主義的な人たちの脳にも染み付いている。アートの世界であっても常に新しいものでなくては価値がない、ポップミュージックでもビートルズレディオヘッドみたいに革新的でなくては価値がない。左翼活動でも反原発だ・・安倍降ろしだ・・次はなにをしたらいいのだ?

少子化の原因にこれ以上の経済発展は望めないから・・というものがあるが、例えば人口が常に横ばいだった江戸時代の村とかであればどうなのだろう?我々はおじいちゃんと孫で食べ物や生活習慣も全く違うけど、当時おじいちゃんも孫も同じような人生を送ってたはずである。今では子供が生まれたら自分よりもいい生活させてあげたい・・と思うのが普通で親心としては健全かもしれないが・・当時は子供の人生は親の俺と同じようなものだろうが、それでも村を維持するために子供を産んでたのである。でも今は子供の人生が自分と同じようなものならカワイソウで産めないのだ。

発展発展を求めて私たちは維持したいと思えるような社会にたどり着いていない。子供にも継いで欲しい職業、残したい風景、街の情感、コミュニティ、そういうものを得ていない。

以前にも書いたが、60年代70年代の頃は運や才能に恵まれてたものや極端に承認欲求に飢えてた一部のものが10年20年かけて東京で一旗あげて承認欲求を満たしてた。それが、段々誰にでも最先端の消費で承認欲求を満たせるようになり、スマホがあれば10秒20秒で承認欲求を満たせる時代になった。我々は承認欲求に支配された。そしてもう承認欲求じゃだめだ・・ていうのがアドラー心理学ブームなのだと思う。

そしてそれがこれからの社会・・
「消費をやめる」をアドラー心理学的視点から解釈してみた。 - 社会考察日記 azalea
それって本当に承認欲求?――群れたがりな私達 - シロクマの屑籠

虐待を受けたものから見たマジョリティの世界

匿名ダイアリーに書こうと思った事だけど、ブログに書いてみる。前からちょくちょく書いてはいたけど、私は子供の頃から共依存の母親から虐待を受けていたので、暗くて無表情、コミュニケーションが下手で友達のいない子供だった。
私がはっきり虐待を受けた、カウンセリングが必要と感じたのが21歳の頃で、当時それ関連の本を読み漁り、機会があれば自助会、カウンセリングを受けた。結果、自分の中の苦しみは随分軽くなった。対人恐怖も愛情飢餓も自分に対する罪悪感も・・楽になった。多分それは外部から見ても明らかにいい方向に変わったと分かるものらしい。
ただ問題なのは、この明らかに前向きな変化を多数派の人とシェアできるか・・と言うとなかなか難しい問題なのだ。だって虐待を受けた、カウンセリングを受けたなんてそうそう人に言えることではないのだから・・
「最近、調子良さそうだね?」「うん、カウンセリング受けててさ・・」とか「休みの日、何してる?」「フットサル」「バイト」「カウンセリング」とかちょっと会話として想像できない。
でも、私の変化は誰が見ても明らかに前向きな変化だったのでみんなシェアしたがる。仲良くなりたがる。私には虐待関連の本を読み漁りカウンセリングを受けた体験を飲み会やサークルに明け暮れるリア充大学生とシェアするなんてとてもできない。このジレンマが苦しい。
思うにマジョリティの人達は自分たちが「正義」でありたい。という気持ちが強いのだ。でもそれはいつもマイノリティの人に受け入れらるとは限らない。良く、私は少数派の同性愛者も外国人も差別しないよ・・というが、果たして同性愛者や外国人は多数派のあなたと必ずしも仲良くなりたいと思ってるだろうか・・?

だから、どうすべきか・・というとよく分からない。取り留めのないことだがふと思いついたとので書いてみた。

イスラム国について思ったこと

日本のネトウヨとの類似点、承認欲求を満たすために残虐行為を見せびらかす。世間のモラルや善意に反することでそれを得意気に見せる。日本でもネトウヨは外国人に対し、「死ね、ゴキブリ」等どれだけひどいことを言えたかを競うのと一緒。

日本の第2時世界大戦戦後との類似、中東でも欧米の介入による戦争がずっと続いてきた。日本が戦争で失ったもの。日本の昔から続く情緒ある風景、これは空襲により焼き払われ後は無残な広告、マンション、パチンコ、コンビニが乱雑に立ち並ぶ街とも呼べぬ街になっている。もう一つは人々の心に残したダメージ、昔AC(アダルトチルドレン)の自助会に出たとき話題になったのだが、親から受けた虐待のルーツを辿るとほとんど皆祖父母の代で戦争により大きなダメージを受けていた。結果戦後日本人は承認欲求に飢えるようになった。おそらくイラクやシリアでも同じことが起きているだろう。

だが結局現代社会はイスラム国のメッセージを真剣に受け止めない。何故なら、心理学の発達した現代では彼らテロリストの心の病も承認欲求も見透かされているからである。だからあんなイスラム国を茶化すようなコラが出回るのも自然なことだと思う。確かに彼らは人を殺す残虐なテロリストで殺人が行われてる事を重く受け止めないといけないが、それでもあまりにバカバカしいのだ。現代において聖戦など・・

私自身はものすごく右傾化してるが世間では右翼と呼ばれない。ここ数年、自分で作る朝晩以外は和食以外のものは口にしてないのだが、国産や旬のものにこだわるとフード左翼と呼ばれるらしい。最近は音楽もアフリカやアメリカ、ジャマイカ等がルーツにある音楽を聴くのはどうもしっくりこなくて本気で和楽でも聴いてみようかと思ってるし、趣味で盆栽やるのもいいかもと思ってる。もし賛同してくれるひとがいるなら、極右集団でも結成して日本的情緒を取り戻すために和のもの以外は一切受け付けない会を作りたい。もちろん暴力的なもの憎悪は一切抜きで・・・

イスラム国の正体 (ベスト新書)

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街場の戦争論 (シリーズ 22世紀を生きる)

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2015年は幸福感の転換期

2015年は幸福が衰退するのではなくて幸福の価値が転換する年であるということ。年始から内田樹先生がネガティブなこと書いてたので・・それに対する疑問。やりがいのある仕事で働いて結婚して子供作るとかネット右翼原発派をぶっ倒して明るい世の中を作るとかそういう既存の幸福から見ればいいことはないのかもしれない。
2015年の年頭予言 - 内田樹の研究室

去年の末に書いたけど、今まで幸福というのは他人との差異の中に見出すものだった。左翼と右翼、ニート社畜、既婚者と独身、フェミニストと中年オヤジ、お互いを見下しあい、相手との差異の中に自分の価値を見出し、相手との戦いに勝利することにこそ幸福と信じる。そういう承認欲求を満たす幸福の方が一瞬の幸福度は大きく感じられるしかし連鎖し増大する一方で長続きしない。ついには満たされなくなる。それは戦後の復興から今までずっと続いてきた。

でもこれからは、幸福度は社会全体で分かち合うものになると信じている。それを一番受け入れがたいのが実は左翼だったりするのではないかと思う。なぜなら彼らはある程度熟考した上で、原発や政治家や右翼等を敵とみなしそれを倒すことが幸福になると信じていたからである。右翼や政治家と幸福をシェアするというイメージが持てないんじゃないだろうか?そうすると自分の左翼としての価値がなくなってしまうから・・一方で社畜なんかは「本当に俺はこれでいいんだろうか?」と疑問を持って生きてきたから受け入れやすいと思う。「嫌われる勇気」がビジネス本として人気なのはこの当たりなんじゃないかと思う。

なので2015年が不幸な年だと感じられる人は既存の幸福感にしがみつくのではなく、新しい幸福感を受け入れる転換期であるという事を考えて欲しい。