2015年はきっと僕らは共産主義的な生活をする。

年末なので来年の予想を立ててみた。今年「嫌われる勇気」が大ヒットして70万部くらい売れたのだそうだ。つまりそれだけ多くの人が自分の中の承認欲求を自覚してるということなのだ。承認欲求を自覚するとは「承認欲求、それは満たされるのは一瞬、でも満たされたいは一生続く」そのことを認識するということ。酒みたいのなもので、一時の救いにはなっても一生を救うものではない。

昔、中国や北朝鮮の生活などをテレビで見ていて、みんな同じような服装、同じような髪型、娯楽も少なそうだしつまらなそうだね。彼らマイケルジャクソンもミッキーマウスも知らないんだよ。と家族と語っていた。でも僕らもそうなっていくんじゃないだろうか?誰に強制されたわけでもなく・・

承認欲求が満たされる条件について感覚で憶測してみたのだが、いわゆるそこにいるメンバーのウチ半分以上がそれに参加していて、自分がその上位20%以上に入ってる時・・例えばクラスのうち半分以上が男女交際に興味を持っている状況で、彼女がいないものや普通の女の子と付き合ってるのが8割でクラスに2割くらいしかいない可愛い子と付き合ってる時、職場の半分以上が車に興味があって大半は持ってないか軽自動車、中古車にしか乗れないなか、外車や高級車に乗る等・・・あるいはクラスの半分以上が何かしら音楽を聴いてるなか大半が浜崎あゆみEXILEを聴いてるなか自分はレディオヘッド聴いてるとか・・

つまりある種のバランスが崩れたら・・皆がそれに参加しなくなったり、自分が少数派でなくなった時、承認欲求は満たされなくなってしまうし、そもそも承認欲求を満たすのが幸せなら皆が幸せな社会は実現できない。

そういう虚しさに気付いてしまったら、服装や髪型を人と違った奇抜なものにしてみようという気もなくなるし、ほとんどの消費というものに興味がなくなってしまう。強制されたわけでもないが共産主義の国と同じような文化に近づくのではないだろうか。そこで私はいま共産主義の人たちがどうやって人生を楽しんでいたのかに興味がある。

下記のえいが「コミュニストはSEXがお上手?」(実は取り寄せ中でまだ見てないのだが・・)では東ドイツと西ドイツを比べると東ドイツの方が頻繁にSEXをしていた。
共産主義社会の東ドイツの方が、人々は禁欲的な生活を強いられているかと思いきや、この映画をみていると、東ドイツの浜辺ではみんな全裸で海水浴を楽しんでいて、ことセックスに関してはとても開放的で、子供たちの性教育も国家全体で取り組んでいたという。一方、自由主義の西ドイツでは、男たちは金で簡単にセックスを買え、若者はフリーセックスを叫び、街にはポルノ雑誌が氾濫し、性欲のためにはなんでもしてきたはずが、東ドイツの方がセックスに関しては進んでいたとは、どこが間違っていたんだろうか。」

レビューからの抜粋なんだけど、よくわかる。SEXを楽しんでるのが全員であれば、SEXをしても承認欲求は満たされない。まさしく資本主義的な西ドイツ。なので共産主義的に人生を楽しむにはどうすれば良いのか・・それが2015年の幸せの秘訣になるはず。

コミュニストはSEXがお上手? [DVD]

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嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

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ネットウヨクには勇気づけられた経験がないのでは・・

最近、ネットウヨクやテレビにおける「日本はすごいんです」特集など、日本の右傾化?に関するニュースが多いのでそれについて考えてみた。(と言っても小林よしのり戦争論がヒットしてから10年以上続いてる気もするけど・・)

それについて思うのは、日本人には子供の頃アドラー心理学でいう所の「勇気づけ」られた経験が極度に少ないのではないかということである。私は子供の頃、サッカークラブに入っていたが、指導とは何をするにもダメだしなのである。勝っても負けても走れてない、声が出てない、気持ちがこもってない、挙げ句の果てに罰走が待っている。それは褒めると天狗になって向上心をなくすから・・怒るのが親が指導者の愛情・・という考えにも基づいている。学校では先生が日本は歴史を反省してない悪い国です。メディアでは知識人は日本は欧米より遅れてます。外国を見習わないといけません。

自分のアイデンティティに対しダメ出しされるということは虐待の一つであると思う。だから少なくとも中学生以下の子供に対しては「日本人はダメ」というべきではなかった。当然今我々もヘイトスピーチ在日韓国人の子供に与える影響について考えないといけないと思う。

最近、実はフェミニストネット右翼って似てるのでは・・と思い始めてる。フェミニストにも色々だろうが、子供の頃から「女はダメ、女は劣等」と言われ続けた反動として、男性攻撃に走るフェミニストと、「日本人はダメ」と言われ続けた反動として「日本人はすごい」外国人攻撃に走るネットウヨクは似てる。両者の間違いはどこから起きるのだろうか?それは「女はダメ」「日本人はダメ」への対局は「男はダメ」「日本人はすごい」ではなく「自分はOK」「自分はできる」であるべきだということなのだ。

私自身、毒親である母親がテレビを見ては「日本人ってだめよね〜」「男ってダメよね〜」という感想を漏らす人であった。そういう人間には子供にダメだししてる自覚がない。ただそういう虐待を受けた傷からの回復というのは、日本人を他の外国人と比べるとか男と女で比べるのではなく、自分自身に対して勇気づけることによってなされるのである。

欧米が日本やアジアや他の地域に対して民度が高いかどうかは分からないが、もし民度の差というものがあるなら、それは自分のアイデンティティにダメだしされた経験が少ない事と、「君ならできる」と勇気づけられた経験が多いことによると思う。

自分自身そういう勇気づけの体験が例えば高くても無農薬野菜を買おうとか、電車の中で妊婦さんや老人に席譲るなどの日本をいい国にしようという行為に繋がってる気がするが、虐待の傷から回復できてない人は、攻撃に走るしかないのかと思った。

承認欲求を捨てようとすると小学生の頃の感覚がよみがえる。

最近、如何に承認欲求から逃れるか?そして承認欲求から逃れた後どう生きるのか?というのが人生の最重要テーマになってきている。そうするとだんだん小学校3、4年生頃の記憶・・というより感覚がよみがえってきた。

私は機能不全家庭に育った愛情と承認欲求に飢えた子供だった。運動は苦手で特に勉強ができるというわけでもなく、流行にも疎いし、人を笑すようなひょうきんな子でもなく、喧嘩が強いどころか喧嘩すらできない、なにか特技があるわけでもない。スクールカーストで言えば下位グループに属してるような子供だった。本来は・・

小学校3、4年生の頃、普通の学校生活であった。カースト下位グループの友達と一緒に遊んで特に目立つ訳でもない平凡な生活。機能不全家庭だったから毎日憂鬱でつまらなかったけど、今思うと極めて健全だった。ところが小学校5年生になると、スクールカースト上位の男子が私のことをキャラ的に気に入りだした。カースト上位に属してるのか下位に属してるのか、よく分からない立ち位置になる。カースト上位の女子も私のことがカワイイからと気に入りだした。周りから「あいつ、調子のってねえ?」という声が聞こえた。

承認欲求に飢えた小学生の私にその誘惑に勝てない訳が無い。手に入れた「特別な自分」は「憂鬱な平凡な自分」から逃れる最高の手段であった。カースト上位に気に入られるカワイイキャラを積極的に演じるようになる。そうすれば親から愛されてないという現実から逃れられた。だがそれと同時に無気力、無感情にもなり、中学の途中で今までの友達から全て縁を切られた。中学、高校と承認欲求に飢える自分と、逆に承認欲求を満たしてしまうほど、無気力、無感情になっていく自分とのジレンマに苦しむ事になる。

アドラー心理学にライフスタイルという言葉があるが、その時「特別な自分」でいたいという私のライフスタイルは出来てしまったのだと思う。

大学に入り、機能不全家庭を自覚し、底なし沼のような飢えるような承認欲求からは開放された。だが、大学生活、就職活動に社会人生活に全く馴染めない私は反資本主義的活動に傾倒していく。別にそれ自体間違ってなかったが、それはどこかで「特別な自分」願望と繋がってしまった。玄米生活とか無農薬野菜生活、健康にいい分にはいいが、いつのまにか人と違うことをしないと自分には価値がないように思えていた。

そして今に至るわけだが、今承認欲求を捨てようとすると、23年分の記憶をすっ飛ばして10歳の頃に帰るような感覚に陥る。憂鬱で平凡で代わり映えしない日々、休み時間サッカーをしたり、公園でポコペンしたりして楽しく、体育の時間で恥かくのがいやだった・・でも今思えば1番健全だった。あの頃は機能不全家庭で暮らしてたけど、今は家を出て一人暮らしだ。

思えば中学の頃から、オシャレしたり、不良っぽい事したり、男女交際したり、承認欲求を満たす手段が急激に増えたように思える。普通で無個性なやつはつまらないとされ、人と違う特別なことが褒められた。就職活動であれ消費活動であれ左翼的活動であれ・・・思うに承認欲求を満たす手段がなかった時代というのはほとんど誰にとってもどこか憂鬱な記憶なんじゃないだろうか?そして、そこから逃れようとしてきた。でも時代的に僕らはそこへ戻らないといけない。今はそういう時代なんだと思う。

ぼっちのメリット、デメリット

『ひとりぼっちを笑うな』生きづらいと思い込んでいる人へのメッセージ - ぐるりみち。
上記ブログ記事を読んで、自分もかなりのぼっちであるので、ぼっちについて考えてみた。
自分の場合、中学、高校の時にもぼっち期間はいくらかあるが、大学では5年間通って、人と話したのは何回か・・というかなりの究極ぼっちであった。そもそも、大学そのものに馴染めないのと元々メンヘラの対人恐怖だったので友達を作りたいという以前の所だったのだが・・

それで5年間も何をしてたかというと、ひたすら、本を読み、音楽を聴き、映画を見て・・の日々だった。かなりおたくな音楽や映画ばかり見ていた。テクノやヒップホップ、それも60年代や80年代の昔のもの、映画もロシア、フランス、ドイツ・・所謂流行とはほど遠いもの・・

その後社会人になり、カラオケ等行ったりすると、歌える曲が一曲もなくて、高校の頃流行ってたスピッツの曲とかを一生懸命思い出してたりした。5年間もぼっちをやるととにかく付き合いというものが窮屈で仕方ない。テレビ見てないとかあれ知らないこれ知らない、こうするのが普通等など・・

ぼっちのメリットは同調圧力から自由であること。ただ一方でこんな話がある。

ある村に世俗的な欲望を捨てた仙人のような人がいました。彼は村に住むことを拒否し、山の中に掘っ立て小屋を造って、ただ一人で自給自足の生活を始めました。村人たちと交流することに意味を感じなかったのです。ある日その村が大火事に見舞われました。村は荒れ果て、人々はその土地を捨て、他の土地へ移住することを決めました。そして、村全体で大移動したのです。すると、驚いたことに仙人のような世捨て人まで移住して、新しい村を見渡せる新たな山へ引っ越したのです。世捨て人は人間関係を捨てたのではありませんでした。彼は世俗を捨てた清らかで優れた人間である。と村人から思われたかった。そのために世捨て人になったのです。ですから観客がいない場所で生きることに耐えられなかったです。(アルフレッドアドラー 人生に革命が起きる100の言葉/小倉広)

ぼっちはリア充に比べ「比較的」自由である。しかし完璧に自由なわけではない。対人関係から自由な人間等いない。ぼっちでも他人からの評価は気になるし、他人との比較や評価に自分の価値を見出してる。
ぼっちのメリットとしてオタクになることができるという点がある。ただ裏を返すとオタクにならないとぼっちに耐えられないとも実体験として言える。自分だけの世界があればぼっちにも耐えられる。ただ自分だけの世界は長続きするだろうか?夢中だった趣味も年を取ればいつか飽きたり、面白みがなくなったりするかもしれない。あるいは世間で流行りだして誰もが知ってるものになってしまうかもしれない。

その時始めて自分にはなんの価値もないような欠落感を感じるなら、ぼっちに執着するより作れるなら少しでも友達を作っておいたほうがいいように思える。

いま考えるのは同調圧力のかからない、自分にとってプラスな人間関係とはどんなだろう?ということである。結局、他人との比較や他人からの評価から自由になれないのなら、もっと積極的に人と関わりたいとも思う。けどそれが劣等感まみれになり他人の顔色ばかり伺うのではなく、前向きあの人が頑張ってるなら自分も頑張ろう・・とかあの人に評価されてうれしいから頑張ろうとかそう思えればいいのだが・・

「友だちいない」は“恥ずかしい”のか (平凡社新書)

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非属の才能 (光文社新書)

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ファスト風土についての雑感

『ここは退屈迎えに来て』ーーファスト風土の“退屈”から抜け出すには - チェコ好きの日記
ファスト風土には「趣味の奥行き」が無いんですよ。 - シロクマの屑籠

ファスト風土が話題になったので、自分も地方(群馬)に1年間住んだことのある都会の人間としてファスト風土について考えてみた。

群馬に住んでたのはもう数年前のことだけど、都会では、駅前、駅中にあるスタバやユニクロドンキホーテ等を車に乗って買いに行き、それが生活基盤になってる。駅前商店街はシャッターが降りてて閑散としてる。とにかく第一印象として寂しい、虚しいという気がした。

その寂しい、虚しいの感覚を今改めて考えると、地方ではまず人口(人口密度)が少ない。そして基本移動は車である。それは承認欲求を満たそうと舞台に上がった時、圧倒的に観客が少ないってことなのだ。例えば、お洒落なファッションをしてスタバにコーヒーを飲みに行く。東京なら駅前の人ごみも電車の中も人が半端ない、地方ならオシャレをしても車に乗れば外から見られないし・・家から車でスタバに行って帰っての間に自分を見てくれる人の数は都会の10分の一にも満たないかもしれない。

でも群馬の若者たちは一生懸命、承認欲求を満たそうとしてるようなのだ。奇抜なゴスロリファッションとか、高崎駅前のストリートミュージシャンドンキホーテにいるギャルとか・・でも原宿、渋谷で見るそれほど決まってない。やっぱり観客の少ない舞台の役者は下手なのだ・・って思わざるを得ない。

それと、何十件も食べ歩いたわけじゃないから・・恐縮だが、東京に比べラーメンが不味くそばがうまいと感じた。ラーメンにはスープの出汁の取り方から味噌、醤油、塩、麺に至るまで何百通りにも個性の出し方がある。逆にそばは麺つゆにも麺にも個性を出す余地なんてない。群馬のラーメンは東京で流行りのとんこつとかつけ麺等、模倣しながら個性を前面に出そうとするのだが、味はどれもイマイチ・・逆にそばを食うと「そばってこんなにうまかったっけ」っていうほど美味い。

消費のサイクルで言うと、1、まず1番メジャーな物から入る。2、周りも皆メジャーな物を消費しだす。3、周りとは違う独自の個性的なものが欲しくなる。4、個性を追求しすぎて飽和する。5消費に飽きる。

シロクマ先生も指摘してるけど、地方のファスト風土では、ファッションでも食でも2→3の段階で引き出しが圧倒的に少ない。独自の個性的な消費はやっぱり個人営業の店でないとないから地方で探すのが難しい。それとやっぱり観客が少なく、見ることも見られることも少ない環境では承認欲求エネルギーが少なく2、3にたどり着く前に息切れしてしまう感じがする。
ただどっちにしろ流行発信地?の東京でも消費は飽きられている。もうどんな過激なファッションも新しくない。渋谷からギャルが消えるくらいなのだから・・そういう変化が地方のファスト風土にどう影響を与えるのか興味深い。

ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)

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適応に値する社会の喪失 

最近、改めてインナーチャイルド療法を行っている。(インナーチャイルド療法については下記の本を参照)。そこで気づいたのだが、適応に値する社会というものがないということはこの療法を行う上でけっこうネックになってくるという事なのだ。子供がまだ乳児期(生後〜9ヶ月)の頃は社会適応の必要などない。食べたい時に食べ、寝たい時に寝、排泄したいときにする。この時期必要なのは欲求を満たされること、世界から大事にされ歓迎されることである。ところが、9ヶ月を過ぎて歩行期が始まるといつまでもそういう訳にはいかない。ご飯もご飯の時間まで待たないといけない、睡眠もベッドに入るまで、排泄もトイレに座るまで待たないといけない。我慢することを学ぶのだ。この時期子供は、親に対してイヤという「イヤイヤ期」を通過するし、なんでも一人でやりたがる時期も通過する。社会というものに適応するための、大人になるためのトレーニングである。

動物のドキュメンタリー番組でも子供がある時期になると、自分で餌を取ろうとしたり、親から離れて行動したりするシーンをよく見る。人間という動物もまた然り。ただ動物は大人になっても社会が適応に値するかどうかなど考えないだろう。人間の子供だって幼稚園や小学校が果たして適応に値するかどうかなど考えないだろう。でも人間は思春期以降けっこうそういうことについて考える。

親が完璧である必要などないが、全く愛情が感じられないとか、精神的に病んでると辛い。社会も同じく完璧でなくても良いが、全く居場所がないとか、適応する価値が見出せないと辛い。わたしは眠くても起きて会社に行き、食事の時間をずらしてでも働くような価値が仕事にあって欲しいと思ってる。ないならそのことに向き合うしかない。

大人になった時、適応に値する社会がないと言うことは、子供の頃、養育者がいないのと同じく辛いことである。そしてその事から目をそらして生きていこうとすると大変に辛くなる。なので、ニート、プロブロガー、旅人、ヒッピーとかが俺たちhappyで充実してるぜ・・というのが信用できない。だって親から虐待されたり捨てられたりした人が、俺たち親なんて必要ないぜhappyだぜって言ったら絶対嘘だと思うもの・・でもひどい親だったけど、その事と向き合ってカウンセリング受けて今はなんとか生きていけてる・・という話なら分かる。

だからこのご時世、働く意味も社会に出るという意味も見出せないかもしれないけど、それでもなんとかそのことに向き合って生きていけてるって成功例が欲しいのだ。

インナーチャイルド 本当のあなたを取り戻す方法〔改訂版〕

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子どもを生きればおとなになれる―「インナーアダルト」の育て方

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民主主義を疑うことについてのつぶやき。

原発、環境問題、人権問題、人種差別等々リベラルな問題に人々がデモ活動等を通して取り組むとき、それは自分の意思というよりも他人の評価を気にしての行動だということ。
・他人の評価とは結局行き着くところ国際評価からの評価であり、国際カースト上位の国、米英独仏・・欧米諸国からの評価であること。評価基準を作ってるのがそれらの国であるということ。
・数年前にドイツを旅行した経験からすると、日本より過去の戦争を反省してると言われるドイツの方がずっと人種差別的だ。いやな仕事は移民にやらせるとか、アジア人が列に並んでると当たり前のように割り込んでくる・・それを当たり前で人種差別だと思ってない人があまりにも多い・・という点で。
・欧米人は人種差別をするために人種差別反対をしてるのではないかと思うときがある。欧米人が最優秀民族であるためには、リベラル民主主義という分野で1番進んでいなければならない。サッカーの試合で1部のファンが差別行為を行ったために(そのファンだけを出入り禁止にすれば済む話なのに)無観客試合になったりするのは人種差別撲滅のためより自分たちが1番進んでいることをアピールしたいためなのだと思う。
・かといって欧米人は傲慢だとかいうつもりもなく、彼らも当然同じ人間なのだから、他人からの評価が気になるし、欧米人は優秀、知的、かっこいい、という価値観が生まれたときからあれば、それを捨てたくないと思うのも当然なのだ。
・他人の評価を気にして行動するのを止めれば、そもそもデモも選挙も誰も行かないんじゃないか・・と思ったりもする。あるいは今僕たちの知ってるデモや選挙とは違う形のものになるんじゃないかと思う。

殴り書き、箇条書きですが後々まとめたいです。